映画評
    人間社会の行き過ぎ照射    (しんぶん赤旗 2008年1月14日掲載 )

映画「アース」地球規模の映像

 北極から南極まで地球を縦断する形で、白熊やアフリカ象、ザトウクジラ、ライオン、チーター、ホオジロザメなどの自然の生き物の生態をとらえた、そのカメラワークの素晴らしさ。自然の営みと雄大さ荘厳さに圧倒され、地球規模で写しだされる世界に、息を呑(の)む。
 なにより多くの命が、地球に存在し、それらが、それぞれの他者の命をいただき、連鎖しながら生きていることの不思議。そのなかに私たちの命もあることを、映画は、いや地球は教えてくれる。
 しかし、私たちの視点は、明らかに数十年前とは異なっていることに気づく。
 かつて、これらの自然と向かい合ったドキュメンタリーには、尊厳と脅威や神秘と同時に、美しさやロマンチズムや冒険心などを感じたはずである。
 また数十年前には信じられなかったほどに進んだ映像技術と交通手段で、私たちは地球横断での自然界の営みを、まるで鳥になったような目で旅することができる。
 そこには例えば、北極の氷山の穴から、まるで雪の子のような愛くるしい小熊が這(は)い出し、急斜面を転げ落ちるようななかで、ヨチヨチと歩き出す姿を目撃することができる。その小さな生き物のいとおしさを、またじっと穴の外で見守る母熊の慈愛に満ちた瞳を、存分に感じることができる。
 あるいは、アフリカゾウが、群れをなして水を求めて遠くまで旅をし、そのなかで小象が迷い他の獣に襲われそうになるのを、庇(かば)う親象たちの姿に心うたれるだろう。パプアニューギアでは、野鳥の求愛のためのパフォーマンスの美しさに、まるで最上のミュージカルを見るような思いになるだろう。
 だが、カメラはやがて、北極から南極にいたり、そうしてまた再び、北極の白熊の生態をとらえる。そこには脆弱(ぜいじゃく)になった北極の氷を見ることとなる。それは氷上生活をする白熊たちをたちまち海に落とし込み命を奪うありさまなのだ。その遠因は、どうやら私たち人間の工業化し合理性を求め、自然界から乖離(かいり)した生活から生まれた温暖化のひずみのようなのである。
 カメラの手前には、間違いなくスタッフがおり、そのずっと手前には、私たちの暮らす、石油や電気や食品を大量に消費する世界がある。つまりは、自然界を映し出す映像からは、間違いなく私たちの営みの行きすぎた社会を、あたかも鋭い刃に映したような、対極の人間世界を突きつけてくる。
 前作「ディープ・ブルー」という海洋を通して多様な生態のありようの素晴らしさをみせてくれた映画のクルーは、今回、神の目とも言える視点で、地球という生命体を通して、私たち人間ただの一人をも見せることなく、人間の営みの行過ぎ、歯止めのかからない自然を侵食してきた社会を照射してみせるのだ。