映画評
いのちの食べ方 (2007年11月1日掲載) 「THE BIG ISSUE JAPAN ビッグイシュー日本版」82号 ベルトコンベアで解体場に流れるように送り込まれる鶏たち システム化された私たちの食の現場を描いた映画 『いのちの食べ方』 豚が解体されて内臓や頭などをはぶいて枝肉として吊り下げられて並んでいる。牛たちが順列をつくり、乳搾りの機械でミルクが搾られる。広大な建物のなかで鶏が育てられ、病気の鶏をチェックし、死んだ鶏を除去している。地平線まで続く畑では、大型の機械を使いジャガイモが収穫される。 画面は言葉も音楽もなく、次々と食の現場が映し出される。豚、牛、鶏、パプリカ、トマト、りんご、卵、アスパラガス・・・登場するのは、実は、日常、私たちが口にする食べ物の生産の現場だということがわかる。 今、食の安全性が盛んにマスコミで取り上げられている。だが、私たちは普段食べている食の現場を実際に観ているのだろうか。 私たちの食は、効率化され合理化され、大量に作られるようにシステム化されている。そのなかに私たちの現在の生活があることを、じんわりと語りかけてくる。 牛が大きなドラムのような金属の筒に送り込まれ、顔だけ出した状態で、電気ショックで気絶させ解体される。そんな映像に目をそむけたくなる。でも、私たちの日常食べるスーパーの肉は、まさに映画に登場する現場からやってくる。 大きな鶏舎に鶏をすくいあげる装置のついたベルトコンベアが入り、鶏が次々と飲み込まれ、解体場に流れるように送り込まれる。解体され吊り下げられた後は、分業化された作業場で、肉として仕分けされていく。たんたんと仕事をこなす人たち。 膨大な命が効率化され合理化された中でつみとられ、それが私たちの食として運ばれる。食する私たち自身もシステム化された社会に組み込まれているのだろうか。食は、私たちにとってなんだろう。私たちが現場を見ず、食の生産に関わることもなく、食の安全など語れるのだろうか。食の基本をぐいと胸につきつけられる。シンプルで深遠な問いを投げかけてくる。 Copyright © 2006-2024 Hiromi Kanamaru All Rights Reserved.
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