第27回 終わりから始まった酒造りとパッチワーク展 福岡・久留米
会場内には山口怜子さんとその仲間の人たちの見事なパッチワークが展示される
福岡県久留米市の山口酒造場「庭のうぐいす」を開放して年に一度行われる山口怜子さんのパッチワーク展「筑後の土蔵」を念願かなってようやく見に行くことができた。天保年間から続くという酒造場の家屋を使っての展覧会は、その建物と作品が、見事に調和して、深遠な情緒をたたえている。
長い歴史のなかで育まれてきた建築物と、古着や酒造りのこすための袋などを一つ一つ針と糸で繋ぎ、誕生したという数々のキルト。そこには、まるで時間と空間が融和して、ひとつの宇宙を形成している。
例えば、酒造の作業に用いられたという麻布から生まれたという船を描いた作品は、もともとは一枚の、同じベージュの、日本でいえば薄柿色のものだったに違いないのに、長年の仕事のなかに、いくつものしみを作り、それらがさまざまなグラデーションを生み組み合わさって、一つの作品となっている。
保年間から続く山口酒造場の外観。中は昔の大黒柱、梁を始め、当時のものが残り、奥行きがある
船を描いた作品の布の色が同じベージュ系統から生まれたといえども、それらが、いくつもの歴史と作業を経て、えにもいわれぬ色彩を誕生させる。曙色、小豆色、海老茶、珊瑚珠色、柿渋色、照柿、琥珀色、浅黄、山吹色、玉子色、くちなしなどなど。それらが大きな作業用の麻布から誕生したのはわかるとして、どうして、こうも繋ぎ合わさって、一つの作品と宇宙を形成できるのか、不思議でならない。
あるいは、華やかな衣装をまとった男女の畳一畳はあろうかというほどの作品。山口さんは「ど派手な作品でしょう」と形容されたのだが、これが決して派手であって、派手でない。奥ゆかしさと、絵の構成のバランス、それに細かく織り込まれた一本一本の針と糸との丁寧な仕事が、融和する。使われる色彩は、四季の花々の木々の色々で、つまりは自然が紡ぎだした色合いなのである。それらが目に一瞬華やかには飛び込むが、でも落ち着いても見えるのは、あるがままの色を溶けあわせるような、山口さんの天性ともいえる感性のなせる技なのだろう。
いつもたおやかな山口怜子さんの人柄、作品は人々を魅了し続ける。「作品はね、古着でないとできないんです。その古着の物語を聞いていると、作品が浮かび上がる。新品では絶対できないんです」
山口怜子さんと初めて出会ったのは、イタリアのスローフード・アワードという世界の優れた農業者を表彰する2002年のトリノの会場でのこと。実は山口さんが、優れたパッチワークのアーチストであると同時に、近郊の農家の人たちと連携しながら酒米作りから酒造りを行い、さらに健康にいい、雑穀米、お茶、醤油、ごま油などを始め、食材作りを支援してきた方というのは、帰国後の何度かの交流と出会いから、少しずつ知ったのである。
山口さんのパッチワークの蔵での展覧会が始まったのは19年前から。この作品展、いまでは海外からも人が見にくるほどの存在だが、山口さんの「実は酒蔵を閉じようかという話になって、せめて最後に、お米づくりから関わったお酒と、パッチワークの展覧会をとお願いしたのです」という意外な話に仰天した。「それが、あれよあれよと19年になった」。圧倒的な輝きを放つキルと酒と酒蔵のコラボレーション作品が、実は、終焉の幕から始まったとは、信じられないことである。
怜子さんは、大分県大山町の生まれ。大山町というのは、地域の食材を生かした直売、レストランなどが人気で、地場産物を生かした町おこしの先べんを切ったところで有名なところだ。その地域食材を生かした町おこしを仕掛けた人こそ、八幡治美氏である。その八幡氏の5人兄妹の一人として育ったという。
近郊の農家と連携し除草剤を使わない酒米作りから生まれた山口酒造場のお酒の数々
怜子さんが山口酒造場「庭のうぐいす」に嫁いだのは21歳のとき。酒蔵の柳行李に眠っていた古着を義母と縫ったのがパッチワークの始まりという。「最初の頃は、座布団にしたりして差し上げたりしていたのですが、古いものというので不評でした(笑)」という。ところが、アメリカから訪れた客人の目にとまり、海外で紹介され、キルトの賞を総なめにし、高い評価を受けることとなる。
そんな怜子さんが少しずつ始めたのが、地域の酒米から作る酒造りである。当時は、酒造業界は、いずこもアルコール添加をする清酒、さらに糖類、有機酸、グルタミン酸などを添加する酒が主流だった。これは、戦後の米不足が原因で、米が少ない分を、醸造アルコールや糖類で補う酒造法が生まれ、法的にも認可されてきた。ところが、添加する酒が利益も高いこともあって、販売の主流になるのである。
ところが、海外からのウイスキー、ワインなどの輸入攻勢もあって、日本酒は劣勢になる。ちなみに、怜子さんが嫁いだ1965年頃は、酒蔵は4000軒近くあった。しかし現在は、1600軒と3分の1近くに激減している。日本酒が、利益よりも本来の嗜(し)好品としての酒造り、本来の米からの新たな酒作りと酒蔵の再生が、各地の酒蔵で始まるのは、ようやく1985年頃からである。今でこそ、純米、吟醸、大吟醸などという言葉が一般化しているが、まだ20年くらいの歴史しかないのである。
「古着でないとパッチワークはできない。新しい布だと物語が浮かばないんです」と山口さん
つまり山口酒造場の流れも日本の酒造界の大きな波にさらされていたのである。怜子さんの本来の米だけの酒造りは、実は彼女自身の体質、つまり添加物を受け付けない体にあったという。これは、私も自分の子どもが化学物質過敏症なので、よく理解できる。そこで、純米からの酒造り、つまり伝統の技法の再生と復活が始まったのである。「でもね、お米だけのお酒は、当時は売れなかったんです」という。
こうして、酒蔵を閉じる前に最後にお酒とパッチワークの展覧会をと、開いたのが、大きな評価を受け、酒蔵は再生したのだという。しかし、歴史ある蔵の、そのなかに展示され試飲ができるようになった、米から生み出されたさまざまな香りと味わいの日本酒。農家と連携した、いくつもの食材。それに部屋や廊下などに、飾られたキルト。それらは、もうずっと一つにあったかのように優しい力と抱擁をもって迎えてくれるのはなぜだろうか。そこには、人々が叡智を繋いできた命が、本家帰りをして、再生した魂が宿っているからに違いない。(ライター、金丸弘美)
◇第19回「筑後の土蔵」展
10月1日〜23日
福岡県久留米市北野町天満宮参道沿「庭のうぐいす」山口酒造場内
電話:0942−78−2008(山口酒造場)
2005年10月14日
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