第45回 コーヒー豆を日本で生産 鹿児島・徳之島
奄美大島の徳之島に行って、初めて知ったのが島でのコーヒー栽培だ。マンゴーを育てている幸野平太郎さんに「仲間がコーヒーを栽培していて、取れた豆で、初めて焙煎して飲むんで、畑まで来て下さいませんか」と誘われ、紹介されたのが吉玉誠一さんである。5年前のことだ。それから吉玉さんとの付き合いが始まった
吉玉さんは、島のくぼ地にコーヒー畑を持っている。栽培しているのはブラジルとモカ。苗木から、20年かけて育てたという。約120本を栽培し、親木はそのうち40本。そこから少し豆が取れるようになったのだ。取れるといってもほんの少量だ。
枝には熟した可憐な紅い実がなっている。もいで噛んでみると、少し甘い。目をつぶると、異国の味がする。この果実のなかの種が、コーヒー豆となる。いい香りが、まるで島のそよ風のように漂ってくる。味は、強い焙煎にもかかわらず、とても爽やかで、ゆったりした時間を過ごさせてくれる最高の贈り物であった。
実を一つずつ摘んで、奥さんの道子さんの力をかりて、コーヒーにする。水につけて、実の浮いたものよりわけ、果実を取り除いて豆を取り、天日で4週間かけて乾燥。それから、豆を被う皮を一つ一つ手でむいてコーヒー豆が誕生する。実に手のかかったコーヒーなのだ。このコーヒーが実に評判がいい。
UCC珈琲の専門家の方に話して、一度、島まで来てもらった。そうしてコーヒーを見てもらった。すると、現在、吉玉さんが栽培しているコーヒーは、かつてブラジルで栽培はされていたものの、今では作られていない貴重な品種だということが分かったのである。つまり独特の風味と爽やかさには、理由があったのだ。
吉玉さんは、昭和20年、宮崎の農家の生まれ。農業が好きだったが、跡を継げなくて、親の強い勧めで、やむなく大阪の鉄工所に勤めた。農業の夢はつのるばかりだった。ブラジルで農業をしようと、パスポートまで取ったが、すでに移民は打ち切られ、親からの猛反対もあって、そのまま大阪にとどまった。
昭和56年、徳之島で核燃料再処理工場ができるといううわさがたち、島に、本土から150名もの反対派の運動家が集まった。その1人と知り合いだった吉玉さんは、これを機にと、島での農業を夢見て移り住んだ。こうしてブラジルへの夢は、島で土建業に携わりながら、コーヒー栽培へと託された。
今から20年前、コーヒーがあると聞いて沖縄に旅に出た。しかし見つからず、奄美の宇検島でブラジルから来たという1本のコーヒーの木に出会い、周りにこぼれた種から生まれた小さな苗木を焼酎一本で100本もらい受け、伊仙町の青年団と試験栽培したのが始まりである。
育ち始めたとき区画整理で移植をよぎなくされ、そこからようやく根を張り始めたら、台風ですべて横倒し。それでも立ち直り、コーヒーは育った。ブラジルの木は高く風にやられやすいからと、10年前に熊本に出稼ぎにいって低木のモカ種の苗をみつけて、これも栽培を始めた。現在も台風との戦いが最も苦労するところだという。
植えてから3年で花が咲き、少し実がつく。本格的収穫は10年かかる。白い花が咲き、それはやがて真っ赤な実になる。この小さなコーヒー畑を「応援してあげてよ」と、妻の早苗から頼まれた。彼女が出したアイデアが、コーヒーの植樹とオーナー制度だ。まず最初に植樹をしたのは、世界一周から日本縦断まで自転車でし、途中で徳之島によってくれた坂本達さんと、その時やってきた早苗の姉の大ぞの千恵子さんと仲間たち。
島にきてもらった人たちに植樹したコーヒーを紹介する吉玉さん
僕は、東京の友人の藤原ゆきえさんを通じて、コーヒーの卸しをしている狩野知代さんと知り合い、彼女が東京でオーナーを募集してくれた。苗木が5000円、年間3000円の管理費で5年間、というもの。現在、約25名がいて、吉玉さんに苗木を育ててもらい、現在、オーナーがやってくるのを島で待っている。また狩野さんは、吉玉さんから毎年送られるコーヒー豆を使って「徳之島のコーヒーを飲む会」を東京で年に1度開催している。こちらも大好評だ。
2004年に東京からの「ゆらしぃ島のスローライフ・ツアー」というのを東京から行い、このときに17名が参加した。このなかにコーヒーのオーナーになった20代の男性も2名いた。そうして、吉玉さんのコーヒーを訪ねて、コーヒーを味わった。これがすこぶる評判だったことから、今は、吉玉さんのコーヒー園見学は、小さいながらツアーの見学コースの一つともなっている。徳之島に寄られたときは、貴重なコーヒーの園をぜひのぞいてほしいものだ。
狩野知代さんのコーヒーの店 http://www.glaubell.net/
2006年3月2日
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