第6回 きっかけは悪臭問題 都市で食育活動を展開する牧場
「東京の牧場で牛を見ながら、できたてのヨーグルトを食べない?」と言うと、たいていの人は、「えっ、東京に牧場があるんですか!?」と驚かれる。実は東京・新宿駅から京王線でおよそ1時間、山田駅から徒歩5分のところに、牛80頭を飼っている磯沼ミルクファームという牧場がある。駅前に大きな道路があり、その道路沿いの商店からほんの一歩入ると、もうそこは雑木や畑が広がっていて、急勾配の雑木林の細道を下ると牧場になる。牛たちがのんびり草を食んでいる。
この牧場にときどき出かけては、できたてのヨーグルトや、アイスクリーム、牧場主の磯沼正徳さんの手づくり料理を味わうのである。ひろびろとした空間で語らうのは至福の時間だ。この日は、牧場で育ったジャージーの子牛のロース肉をワインとビール、それにトマト、香辛料、ネギで煮込んだ料理をいただいた。肉がとろけるように、やわらかい。それに絞りたてのホルスタインの低温殺菌牛乳を飲んで、ブラウンスイスのアイスクリームをいただいた。大満足である。
磯沼さんのところには、これまで何度も来ている。初めて磯沼さんと会ったのは10年ほど前、実は東京・池袋の東武百貨店での催事の会場だった。磯沼さんは、ジャージー種の牛から搾ったミルクで、しかも一本々々、牛の名前の入ったヨーグルトを「かあさん牛のおくりもの」という名前で販売していた。そこで東京にも農場があることを知り、訪ねたのが始まりだ。以来、何度も通っている。
ここで牛の餌の種類、牛の成長段階で異なる餌、牛の一生、ヨーグルトに使う乳酸菌のこと、牛の種類によって違う乳脂肪のこと、一頭ごとに異なるミルクの味など、さまざまなことを教わった。磯沼さんのところに仲間を誘い、牧場の見学、バターやチーズ作り、ミルクを使った料理などの体験ツアーをしたこともある。
牧場の敷地内は、磯沼さんの家、畜舎や小さなヨーグルト工房、その前にある木のテーブルなどを含めて全部で約6000坪ある。牛は乳牛ではおなじみの白黒のホルスタイン、茶色のイギリスチャネル諸島原産の一回り小型のジャージー種、そしてベージュ色のブラウンスイスなどが飼われている。磯沼ミルクファームでは、牧場の乳牛から絞ったミルクでの自家製のヨーグルトを作っているが、牧場のテーブルでそれを食べることもできるのである。今では、ときどき知り合いを連れて牧場に行くと、たいてい感激される。それがちょっと自慢にもなっている。
ここで作られるジャージーのミルクからのヨーグルトは特別で、上層がまるでとろけるようなフレッシュチーズのよう。パンに直接つけて食べることができるし、ブルーベリーやフルーツを載せれば、それだけで、最上のデザートにもなる。下層はとろりとした酸っぱい味を持ったヨーグルト。つまりヨーグルトが二層になっているのだ。これは、絞ったミルクを、攪拌(かくはん=ホモジナイズ)することなく、そのまま発酵させることで自然にできるものなのである。しかも一般の市販のもののように、砂糖や香料や脱脂粉乳など一切の余分なものを加えていない。ミルクだけだが、それでも存分に甘い味がするのである。ミルクそのものの持ち味を最大限に生かしたヨーグルトなのである。
牧場を開放して見学をするというところは各地で増えてきたが、磯沼さんの牧場は早くから試みてきた。また、ジャージーの名前付きのヨーグルトなど、牧場直送の個性的な乳製品も販売してきた。磯沼さんのところは、多くの牧場がそうであるように、最初は業者だけにミルクを出荷していた。方針を変更したのは1977年。それはオーストラリアの牧畜農家のホームステイがきっかけだった。向こうでは、一般家庭で牛を飼育し家庭で飲むということは珍しくなかった。牛を飼うということを家族が楽しんでいる姿を見て感動。フレンドリーな牧場を作ろうと思い立ち、一般の人が気軽に来れる、今の磯沼さんの牧場のスタイルが始まった。
開放型の農場にしたのは、牛の糞(フン)の臭いの問題もあった。牛は糞をするから当然ながら臭いを発する。かつては近所の住宅から苦情がきたこともあった。そこで、逆にいい香りを放ったらという逆転の発想から、コーヒーの皮とココアの殻を、コーヒー工場から譲り受け、これを牛舎に敷くということから始めたのである。実は磯沼さんの牧場は、ほんのりコーヒーとココアの香りが漂っている。そうして糞を毎日取り出し、牛舎を清潔にするととともに、これを機械を使って攪拌させ微生物の力で発酵させて、良質の堆肥を作るようにしたのである。こうすれば嫌な臭いはまったくしなくなる。磯沼さんの堆肥は、自家用として使っているほか、近在の農家、家庭用の園芸用として評判で、今では人気商品なのである。
また一方で、近所の幼稚園や一般の人に、牧場見学を積極的に働きかけ始めた。私たちが普段飲むミルクがどこからやってくるのか、生きた牛たちがどういう生活をしているのか間近に見てもらおうというわけである。近所にある八王子ふたば保育園もその一つ。ここには毎週ミルクとヨーグルトを磯沼さんが届けている。保育園では、新鮮でおいしく、また瓶からのミルクを園児たちに飲ませたいとの理由で使い始めた。さらに園児たちの牧場見学も行っており、園児たちにどこからミルクが来るのかを、きちんと伝えることもしているのである。
磯沼さんは牧場で開く一般客向けの催しや、他のイベントに牛を連れて行く機会などをとらえては、牛とミルクのことを身近に伝える活動をしてきた。今年からは、毎週、子供たちに牛に触れてもらってよく理解してもらいたいと、日曜日に一般向けの乳搾り講座も始めた。6月からは、「カウボウイ、カウガール」という一年がかりの講座も始める。
「これまで何度もイベントをしてきて、興味がある人たちが増えてきた。そういう人たちのために、牛の一生に付き合うような機会を作ろうと始めたものです。毎月1回で、年12回の体験で、子牛はどうやって育つかとか、種付けはどうするのかとか、分娩はどうなっているのかとか。あるいは乳搾り体験、ミルクからの発酵バター作り、牛を飼うための牧草の手配など、いろんなことを学んでもらう」と磯沼さん。
「カウボウイ、カウガール」は、午前中が授業で、お昼は牧場での手作りランチ。午後は自由研究。年間会費1万円で、毎回の授業料は2000円。定員は20名。対象は小学校高学年から青年まで。ここから他の牧場を見学したいという人は「地域交流牧場全国連絡会」を通じて紹介も可能だという。
BSE(牛海綿状脳症 BSE: Bovine Spongiform Encephalopathy)
の問題以降、トレーサビリティ(追跡可能性)が、とやかくいわれるようになった。しかし、牛の餌から飼育を含めて、よく知っている人はほとんどいないはずである。磯沼さんのこれまでの活動こそが、もっともわかりやすいトレーサビリティだろうし、食べものを知るという「食育」活動だろう。
都市での「カウボウイ、カウガール」講座は、最も古くて新しい革新的なことかも知れない。私たちは、トレーサビリティという制度に頼ることなく、私自身が、なにを食べているのかを知ることがもっと必要であると思うのだ。(ライター、金丸弘美)
磯沼ミルクファーム http://homepage1.nifty.com/isonuma-milk/
2005年5月19日
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